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アーケードゲームの黄金期 - スペースインベーダーからストリートファイターIIまで

1978年のスペースインベーダーから始まったアーケード黄金期、パックマンとドンキーコングが生んだキャラクターゲーム、1983年以降の衰退、そしてストリートファイターIIが呼び戻したゲームセンターの復興までをまとめます。

#アーケードゲーム #ゲームセンター #スペースインベーダー #パックマン #ストリートファイターII

コインを一枚入れて画面の前に立ち、ハイスコアに挑んだゲームセンターは、一つの時代の象徴でした。特に1970年代後半から1980年代初めにかけては、「アーケードビデオゲームの黄金期」と呼ばれるほど、新しいゲームとジャンルが短い期間に次々と登場しました。

この記事では、1978年のスペースインベーダーから始まった黄金期がどのように展開したのか、パックマンとドンキーコングがゲームにどんな変化をもたらしたのか、なぜ1983年ごろに熱気が冷めたのか、そして1991年のストリートファイターIIがどのようにゲームセンターをよみがえらせたのかを順に見ていきます。今も使われている多くのゲームのルールやジャンルが、この時期に生まれたことにも触れます。

黄金期以前:ポンと回路基板の時代

ゲームセンターのビデオゲームは、1971年にノーラン・ブッシュネルとテッド・ダブニーが作った「コンピュータースペース」から始まり、1972年のアタリ「ポン」が初めて大きな成功を収めました。しかしこの時期のゲームの多くは、TTLと呼ばれる個別の論理回路でゲーム一本を丸ごと実装する方式だったため、表現できる内容には限界がありました。当時のゲームセンターの主役は、依然としてピンボールでした。英語版ウィキペディアにまとめられた資料によると、ピンボール産業は1979年に販売台数20万台、売上23億ドルでピークを迎えました。

変化の鍵はマイクロプロセッサーでした。汎用CPUを使うことで、ゲームははるかに複雑なルールや動きを盛り込めるようになり、この技術が安価になったことで黄金期の扉が開かれました。

1978年、スペースインベーダーが開いた時代

タイトーは1978年7月、日本で西角友宏が設計したスペースインベーダーを発売し、同年ミッドウェイを通じて海外にも展開しました。画面下の砲台を左右に動かし、5列11行に並んだインベーダーを撃ち落とすゲームです。インベーダーは画面の端に着くたびに一段ずつ降りてきて、地面まで降りてくると残機に関係なくゲームオーバーになります。

このゲームが残した影響は大きなものです。時間制限の代わりに複数の残機があり、面をクリアするほど難しくなり、ハイスコアを記録する仕組みは、その後の数多くのアーケードゲームの基本的な枠組みになりました。敵がプレイヤーの動きに反応して反撃してくる点も新しいものでした。また、途切れずに鳴り続ける効果音を初めて使ったゲームでもあり、4つの音が繰り返され、進行に合わせて速くなる音が緊張感を生み出しました。

興行成績もすさまじいものでした。ウィキペディアによると、1982年までに累計売上38億ドルを記録し、当時最も稼いだエンターテインメント商品になりました。なお、「スペースインベーダーのせいで日本で100円玉が不足した」という話は広く知られていますが、事実ではない都市伝説とされています。1980年にAtari 2600版が発売されるとゲーム機の販売が4倍に伸び、同年アタリが開催したスペースインベーダー大会には1万人以上が参加して、最初のビデオゲーム大会として記録されました。

色と音、新しい画面技術

スペースインベーダー以降、技術競争が急速に進みました。

  • カラーグラフィック:1979年のナムコ「ギャラクシアン」はタイルベースのグラフィックシステムを導入し、複数の色のスプライトをスクロールする星空の背景の上で動かしました。この方式は、その後の任天堂のアーケード基板やファミコンのハードウェアの土台になりました。
  • ベクタースキャン画面:アタリの「アステロイド」(1979)、「バトルゾーン」(1980)、「テンペスト」(1981)は、線で描くベクターディスプレイで鮮明な画面を見せました。ただし修理費が高く、長くは使われませんでした。
  • BGMと音声:1980年のナムコ「ラリーX」は専用の音源チップで流れ続けるBGMを初めて取り入れ、同年には音声合成を使ったゲームも登場しました。
  • 立体感:1981年のセガ「ターボ」は車の後ろから見るレースの視点を、1982年のナムコ「ポールポジション」は今もレースゲームで使われる遠近法の画面を定着させました。
  • レーザーディスク:1983年の「ドラゴンズレア」のように、アニメーション映像をレーザーディスクから再生するゲームも登場しました。

キャラクターの登場:パックマンとドンキーコング

初期のアーケードゲームが主に宇宙船やエイリアンを扱っていたのに対し、1980年代初めには名前と個性を持つキャラクターが主人公になりました。

1980年にナムコが発売したパックマンは、日本では最初「パックマン(Puck Man)」という名前で登場しました。岩谷徹が率いたチームは、戦争やスポーツが中心だった当時のゲームと違い、女性も楽しめるゲームを目指しました。迷路の中のドットをすべて食べるという単純なルールの上に、赤・ピンク・水色・オレンジの4匹のゴーストがそれぞれ違う方法で追いかけてくる設計を加えました。正面から追いかけるゴースト、先回りして行く手をふさぐゴースト、距離によって追いかけたり逃げたりするゴーストが混ざっており、単純でありながら奥深い判断を求められます。アメリカでは「パックマン・フィーバー」という歌がビルボードHot 100で9位まで上がるほどの大ブームになりました。

1981年の任天堂のドンキーコングは、売れ残った「レーダースコープ」の基板を活用するために作られました。新人デザイナーだった宮本茂が横井軍平とともに開発し、ジャンプで障害物を越え、はしごを登るプラットフォームゲームの原型を作りました。今ではマリオとして知られる主人公が「ジャンプマン」という名前で初めて登場したゲームでもあります。カットシーンで物語を見せ、複数の種類のステージを盛り込んだ点で、当時最も複雑なアーケードゲームと評価されました。

この頃、日本とアメリカの開発者の設計方法にも違いがありました。「ディフェンダー」を作ったユージン・ジャーヴィスは、日本の会社がキャラクターや手描きのアニメーション、決まったパターンを覚えるプレイを重視したのに対し、アメリカの開発者は宇宙シューティングを中心に、敵の出現や背景をアルゴリズムで作り、ランダムな出来事や爆発エフェクト、物理表現を強調したと説明しています。パックマンとドンキーコングが前者の流れを、ディフェンダーとアステロイドが後者の流れを代表しています。「アクションゲーム」という言葉も、この時期に日本で生まれたキャラクター中心のゲームを宇宙シューティングと区別するために使われ始めました。

このほかにも「ギャラガ」(1981)、「ディフェンダー」(1981)、「フロッガー」(1981)、「センチピード」(1981)、「Q*bert」(1982)といったゲームがこの時期を彩りました。ウィキペディアにまとめられた販売記録を見ると、スペースインベーダーは36万台以上、パックマンは40万台以上の筐体が販売されました。

数字で見る黄金期

黄金期の規模は、当時のアメリカの統計から推し量ることができます。英語版ウィキペディアが引用した資料によると、北米のゲームセンターの数は1980年から1982年の間に倍増して1万か所に達しました。ゲームセンターだけでなく、スーパーマーケット、レストラン、ガソリンスタンド、コインランドリーといった場所にもゲーム機が置かれました。

1982年のアメリカのアーケードゲームのコイン売上は約80億ドルと推定され、同年のポピュラー音楽(40億ドル)とハリウッド映画(30億ドル)の売上を合わせたよりも多かったとされています。競争が激しく、ゲーム一本の平均寿命は4〜6か月ほどでした。日本企業の影響力も大きくなり、最初はアメリカの会社にライセンスを供与していた日本のメーカーが、1981年ごろからは自ら筐体を輸出し、アメリカに工場を建て始めました。

1983年以降の衰退

黄金期は1983年ごろから冷え込み始めました。人気ゲームを真似た似たようなゲームがゲームセンターにあふれ、家庭用ゲーム機が普及し、ゲームセンターが子どもに悪影響を与えるという社会的な懸念も高まりました。同じ時期に北米の家庭用ゲーム市場も大きく崩壊しましたが、その原因はそれぞれ異なっていました。

ウィキペディアによると、アメリカのアーケード売上は1981年の80億ドルから1983年には50億ドル、1984年には40億ドルまで落ち込みました。それでもゲームセンターは消えませんでした。既存の筐体に新しいゲームを入れ替える変換キット、「スパルタンX(Kung-Fu Master)」のようなベルトスクロールアクション、セガの「ハングオン」「アウトラン」「アフターバーナー」といった体感ゲームが市場を支え、1987年の「ダブルドラゴン」と1989年の「ファイナルファイト」でベルトスクロールアクションが人気を集めました。

ストリートファイターIIと二度目の全盛期

ゲームセンターに再び大きな風を吹き込んだのは、1991年のカプコンストリートファイターII(英題 The World Warrior)です。1987年の初代「ストリートファイター」の続編で、「ファイナルファイト」を手がけた岡本吉起と安田朗が設計しました。コマンド入力で出す必殺技、連続攻撃であるコンボ、6ボタン操作、異なる戦い方を持つ複数のキャラクターを備え、今の対戦格闘ゲームの枠組みを確立しました。

このゲームが変えたのは、ゲームセンターでの競い方です。黄金期の競争が一人でハイスコアを積み上げるものだったとすれば、ストリートファイターIIは隣の人と直接戦う対戦が中心でした。こうした文化は地元の大会を経て、今日の格闘ゲーム大会EVOにまでつながっています。ウィキペディアによると、世界で20万台以上のアーケード筐体が販売され、スーパーファミコン版だけで630万本以上が売れました。

ストリートファイターII以降、「モータルコンバット」「ザ・キング・オブ・ファイターズ」といった格闘ゲームが続き、セガの「バーチャファイター」(1993)のようにリアルタイム3Dポリゴングラフィックを前面に出したゲームがゲームセンターを牽引しました。ただし2000年代に入ると、家庭用ゲーム機やPCの性能が上がったことで北米のアーケード市場は再び縮小し、日本では家で遊ぶのが難しい体験型ゲームを中心に、ゲームセンターが命脈を保ってきました。

黄金期が残したもの

アーケード黄金期は短いものでしたが、残したものは多くあります。残機とだんだん難しくなるステージ、ハイスコアの記録、固定画面シューティング、迷路での追いかけっこ、プラットフォームのジャンプ、レースの遠近法視点、1対1の対戦格闘まで、今のゲームジャンルやルールの多くがこの時期のゲームセンターで試され、磨かれました。数分でルールを理解させ、もう一度コインを入れたくさせる設計は、今日の短時間で楽しむモバイルゲームにもそのまま受け継がれています。

参考資料

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