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1983年のビデオゲーム市場崩壊(アタリショック) - 原因と結果、NESによる回復まで

1983年の北米ビデオゲーム市場崩壊、いわゆるアタリショックがなぜ起きたのか、E.T.とパックマンの移植作が象徴になった理由、日本市場との違い、NESと任天堂の品質管理方針が市場を立て直した過程を解説します。

#アタリショック #1983年のビデオゲーム崩壊 #Atari 2600 #NES #ゲームの歴史

1970年代末から急速に拡大していたアメリカの家庭用ビデオゲーム市場は、1983年ごろに突然崩れました。英語版ウィキペディアにまとめられた資料によると、アメリカの家庭用ビデオゲームの売上はピーク時に約32億ドルでしたが、1985年には約1億ドルとなり、ほぼ97%減少しました。アメリカでは「1983年のビデオゲーム崩壊(Video game crash of 1983)」と呼ばれ、日本や韓国では一般に「アタリショック」と呼ばれています。

この記事では、市場が崩れた原因をゲーム機の乱立、低品質なゲームの氾濫、家庭用コンピュータとの競争に分けて見ていき、『E.T.』とAtari 2600版『パックマン』がなぜ失敗の象徴になったのかを紹介します。続いて、崩壊の結果、同じ時期の日本市場がどう違ったのか、任天堂がNESと品質管理方針で市場をどう立て直したのか、そして今日のゲーム業界に残された教訓を順に整理します。

原因① ゲーム機の乱立と過剰生産

崩壊前の市場の中心はアタリでした。1977年に登場したAtari VCS(1982年末に「Atari 2600」へ改称)は、最初の数年間は販売が伸び悩みましたが、1980年にタイトーの『スペースインベーダー』を正式に移植すると販売台数が4倍に増えました。この成功を見て、多くの会社がゲーム機を発売しました。マグナボックスのオデッセイ²、マテルのインテレビジョン、コレコのコレコビジョン、アタリ自身のAtari 5200、ベクトレックスなどが、ほぼ同じ時期に売り場に並びました。1982年のハードウェア市場シェアは、Atari VCSが58%、コレコビジョンが約17%でした。

問題は、需要よりも生産のほうがはるかに速く増えたことです。1983年、ゴールドマン・サックスのあるアナリストは、ビデオゲームの需要が前年より100%増えた一方で生産量は175%増え、大きな供給過剰が生じていると指摘しました。1982年の時点ですでに業界のアナリストは、売り場があまりに多くの機種に陳列スペースを割いており、新作が多すぎて一部のヒット作しか生き残れないと警告していました。実際にアタリは、1982年の注文分のかなりの部分が返品され、大量の在庫を抱えました。

原因② サードパーティの氾濫と低品質なゲーム

1979年以前は、ゲーム機メーカーが自社機向けのゲームをすべて自ら作っていました。この構造を変えたのが、1979年にアタリ出身のプログラマー4人が設立したアクティビジョンです。アタリは訴訟で販売を止めようとしましたが失敗し、1982年にアクティビジョンがアタリにロイヤリティを支払う条件で和解しました。これにより、他社がゲーム機向けのゲームを作って売る「サードパーティ」事業が事実上認められることになりました。アクティビジョンの『ピットフォール!』(1982年)は400万本以上売れました。

アクティビジョンの成功を見て、多くの会社が市場に参入しました。1982年夏のCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)では17社がアタリ向けの新作90本を発表し、市場に出たアタリ向けのゲームは1982年6月の約100本から12月には400本以上に増えました。MCAや20世紀フォックスのゲーム部門のように映画会社も参入し、1983年には約100社がCESを足がかりに市場へ入ろうとしていました。Atari 2600には他社のカートリッジを防ぐ仕組みがまったくなかったため、ハードウェアの情報さえあれば誰でもゲームを作って販売できました。

その結果、急いで作られた似たようなゲームがあふれました。売れ残ったゲームを返品しようにも、すでに廃業した会社が多く、店は35ドルで売っていた新作を5ドルのワゴンセールに回しました。安い低品質なゲームが売れることで、よくできたゲームまで売上が落ち、アタリのカートリッジ市場シェアも1981年の75%から1982年には40%未満に下がりました。

原因③ ゲームもできる家庭用コンピュータ

同じ時期、家庭用コンピュータが急速に安くなりました。1982年にコモドールはVIC-20の価格を199ドル、コモドール64を499ドルに下げ、1983年6月にはコモドール64を300ドルまで値下げしました。コモドールとテキサス・インスツルメンツ(TI)の価格競争によってコンピュータはゲーム機とほぼ同じ値段になり、TIは1983年末に家庭用コンピュータ事業から撤退しました。

コンピュータはゲーム機よりメモリと処理速度に優れ、より複雑なゲームを動かせたうえ、文書作成や家計簿といった別の用途にも使えました。ゲームをカートリッジではなくフロッピーディスクやカセットテープで販売できたため流通も容易で、進行状況を保存することもできました。コモドールは広告で「ゲーム機だけを買う理由があるのか」という趣旨でゲーム機ユーザーを直接狙いました。ゲームしかできない機械を買う理由は、しだいに薄れていったのです。

E.T.とパックマン:失敗の象徴になった2本のゲーム

崩壊を語るときに最もよく取り上げられるゲームが2本あります。

Atari 2600版『パックマン』 は1982年3月に発売されました。ナムコのアーケードヒット作を移植したこのゲームは、トッド・フライが6か月かけて開発しましたが、元の基板の設計資料がないまま、実際にゲームを遊んで仕組みを把握しなければなりませんでした。コスト削減のため4KBのカートリッジが使われ、ゴースト4体を1つのグラフィックオブジェクトで交互に描く方式だったため、各ゴーストは4フレームに1回しか画面に現れませんでした。激しくちらつくゴースト、原作と異なる迷路、音は強い批判を受けました。販売本数は800万本を超え、Atari 2600のゲームで最も売れたタイトルになりましたが、1982年の夏にはすでに売れ残りの在庫が大量に積み上がっていました。たくさん売れたとはいえ、「アーケードのヒット作を家できちんと楽しめる」という期待を裏切った点で、信頼にひびを入れた例として挙げられます。

『E.T. ジ・エクストラ・テレストリアル』 は映画のヒットに合わせて作られたゲームです。アタリは権利に2,000万〜2,500万ドルを支払ったと報じられました。交渉がまとまった1982年7月27日に開発者のハワード・スコット・ウォーショウに仕事が任され、9月1日までに完成させるよう求められました。開発期間は5週間あまりでした。12月に発売されたゲームは酷評され、当時のアタリCEOレイ・カサールによると、生産された400万本のうち約350万本が返品されるか売れ残りました。

1983年9月、アタリはニューメキシコ州アラモゴードのごみ埋立地に、売れ残ったカートリッジや機器を埋めました。長いあいだ「E.T.のカートリッジが数百万本埋められた」という都市伝説として語られてきましたが、2014年のドキュメンタリー制作のための発掘の際、当時の責任者だったジェームズ・ヘラーは、さまざまなゲームを合わせて約72万8千本だったと明かしました。発掘で回収されたカートリッジは約1,300本でした。

崩壊のあとに何が起きたか

1982年12月にアタリが年末商戦の販売目標を達成できなかったと発表すると、ゲーム関連株が大きく下がり、その後業界全体が急速に淘汰されました。

会社・分野崩壊後
アタリ1983年半ばまでに3億5,600万ドルの損失、従業員1万人のうち30%を削減。1984年7月、ワーナー・コミュニケーションズが家庭用部門をジャック・トラミエルに売却
マテルインテレビジョンを含むビデオゲーム部門全体を売却
ノース・アメリカン・フィリップスオデッセイ²などビデオゲーム事業を整理
アクティビジョン1984〜1985年に規模を縮小し、カートリッジからコンピュータゲームへ転換
イマジック、ゲームズ・バイ・アポロ、U.S.ゲームズ廃業または事業から撤退
小売店ゲーム機の販売をやめるか、在庫を大幅に削減

市場規模も大きく縮みました。アーケード・ゲーム機・コンピュータゲームを合わせた世界市場は、1982年の約420億ドルから1985年には約140億ドルに減ったとされています。より長く残った傷は、「ビデオゲームは一時的な流行」という見方でした。エレクトロニック・アーツのトリップ・ホーキンスは、1985年まで小売店にゲームを置いてもらうよう説得するのが非常に難しかったと振り返っています。一方、アメリカのゲーム機市場が縮むあいだに、コンピュータゲーム市場は1983〜1984年にゲーム機市場を追い越しました。

日本市場はなぜ違ったのか

崩壊は主にアメリカ市場の出来事でした。日本は財務的に直接の打撃は受けませんでしたが、アメリカ市場が一気に崩れたことは業界に大きな衝撃と警戒心を残し、これが「アタリショック」という名前で呼ばれるようになりました。ヨーロッパではもともと家庭用コンピュータが市場の中心だったため、影響は比較的小さいものでした。

日本の会社は1982〜1983年の時点ですでに北米のアーケード市場で大きなシェアを占めており、アメリカが揺らいでいるあいだに家庭用ゲーム機へと目を向けました。1983年7月15日、任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)とセガのSG-1000が同じ日に日本で発売されました。アタリとマテルがアメリカ市場の立て直しに追われるあいだ、日本のゲーム機は競争相手のいないまま成長し、1986年には日本の650万世帯がファミコンを持っていました。

日本市場も最初から今のような構造だったわけではありません。ファミコンは当初、任天堂だけがゲームを出していましたが、ナムコとハドソンの要望を受けてサードパーティに門戸を開きました。その代わり、カートリッジごとにライセンス料を受け取り、生産は任天堂が直接管理しました。誰でもどんなゲームでも出せたAtari 2600とは、出発点から違っていたと言えます。

NESと任天堂の品質管理方針

任天堂はもともとアタリを通じてファミコンを北米で販売する計画でしたが、崩壊のなかでこの契約が白紙になり、自ら進出することになりました。最大の壁は「ビデオゲーム」という言葉そのものを避ける小売店でした。そこで任天堂は製品名を「ニンテンドー・エンターテインメント・システム(NES)」とし、本体を「コントロールデッキ」、カートリッジを「ゲームパック」と呼びました。カートリッジを前から差し込むビデオデッキのようなデザインに、おもちゃのロボットR.O.B.と光線銃ザッパーを前面に出して、おもちゃ売り場に入り込みました。

NESは1985年10月18日にニューヨークで試験販売を始め、1986年2月のロサンゼルスを経て、1986年9月27日に北米全域で発売されました。同時に任天堂は、アタリが経験した問題を防ぐために次のような仕組みを整えました。

  • 10NESロックアウトチップ:任天堂のチップがないカートリッジはNESで動かないようにしました。
  • 品質認証マーク:任天堂の基準を満たしたゲームと周辺機器に「Official Nintendo Seal of Quality」を付けました。
  • 発売本数の制限:サードパーティは基本的に年5本までしかゲームを出せませんでした。コナミが「ウルトラゲームス」という別ブランドを作ったのもこの制限のためでした。
  • 生産と在庫の管理:カートリッジは任天堂が生産し、パブリッシャーは最低1万本を前払いで注文しなければならず、返品もできませんでした。

効果は大きいものでした。1988年には業界の年間売上が23億ドルを超え、そのうち70%を任天堂が占めました。1989年には50億ドルに達し、崩壊前のピークを上回りました。しかし厳しい管理は独占だという批判も生みました。テンゲンなどの会社は無許可のゲームでこの方針に対抗し、エレクトロニック・アーツをはじめとする一部の欧米パブリッシャーは、セガ・ジェネシス(メガドライブ)のような競合機へ移っていきました。発売本数の制限は1993年ごろに撤廃されました。

今日の業界に残された教訓

1983年の崩壊は、今もゲーム業界でたびたび振り返られます。まとめると、次のような教訓が残りました。

  • 品質こそがプラットフォームの信用です。 消費者は質の悪いゲームをいくつか経験すると、その機種やジャンル全体を信じなくなります。ゲーム機メーカーが発売前に認証や審査を求める仕組みは任天堂の方針から始まり、セガ・ソニー・マイクロソフトも程度の差はあれ、その多くを受け継ぎました。
  • 需要予測は楽観よりも慎重に。 E.T.とパックマンは「たくさん売れるはずだ」という期待だけで大量生産され、在庫になりました。
  • 版権は面白さの代わりにはなりません。 有名な映画やヒット作の名前も、厳しいスケジュールと技術的な限界を覆い隠すことはできませんでした。
  • 管理には代償が伴います。 行き過ぎた管理は開発会社の反発と独占をめぐる議論を招きました。開かれた市場と品質管理のバランスは、今のアプリストアやデジタルストアでも続いている課題です。

ゲームがデジタルで流通する今では、売り場の陳列スペースやカートリッジ在庫の問題はありませんが、毎日数多くのゲームが出るなかで、良いゲームをどう見つけてもらうかという問いは今も残っています。1983年の崩壊は、市場が大きくなるほど量よりも信頼を守ることが大切だということを示した出来事です。

参考資料

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